ネタばれ全開です。
って書いたんですけど、究極のネタばれは書かずに済んだみたいです。
さて、京アニ版の真琴編でほとんど泣くことができなかった私です。その理由も込みでいろいろ考察していこうと思っております。ですから他のみなさんの「泣きました」ってなレビューを見ると「何か、わし、見落としたん?」とも思ってしまい不安になったりするんですが。
さて、真琴編の中心は、あゆのモノローグが冒頭に入らなくなった第7話以降、第10話までになると思います。そのタイトルの確認をしておきますと、
第7話 家出と仔猫の遁走曲〜fuga〜
第8話 追憶の幻想曲〜fantasia〜
第9話 子狐の子守唄〜berceuse〜
第10話 丘の上の鎮魂歌〜requiem〜
私が、真琴編で一番、こみ上げてくるものがあったのが第7話のラストと次回予告でした。第7話のラスト、「ものみの丘」から祐一に連れ戻された真琴が夜食を食べる食卓でのシーン。初めてBGMで「残光」が使われたシーンでした。なんとも言えない表情、安堵感、初めて触れるものへの驚き、そんな感情が入り混じった、これまでとは全く異なった真琴の表情を観たとき、正直、涙が出てきました。ソフトフォーカスのかかった真琴視点で祐一、名雪、秋子さんがたわいのない会話をして笑い合っている状況をただ、そんな表情のままで見続けている真琴。アニメの登場人物の表情だけで、何を思っているのかが伝わってくる、何が言いたいのかがわかるという、実に凄いシーンでした。真琴の心境が伝わってきて、そして真琴に感情移入できたからだけではなく、その凄まじい制作技術にも感動しての涙でした。このシーンに関しては、感想は、ほぼ万人に共通するのではないかと思います。
で、それに引き続いての第8話の予告。
祐一「何やってんだ、あいつ。この寒いのに。」
美汐「あなたを待っているんでしょう」
真琴「ねぇ、紙飛行機つくろぅ、紙飛行機。」「ほらぁ、新しいマンガ買ってきたの。一緒に読もう。」「悪い?」「かわいい?」「なに?」「本当?」「だめかなぁ…」「んん、べぇ〜〜。」「んんんんん〜〜。」
祐一「真琴は……。」
真琴の不安そうな顔、笑顔、むくれた顔……そんな真琴の元気そうな、ころころと変わる百面相を見ていると泣きそうになりました。
ところが、「第8話はぜったいに泣いてしまうぞ」と覚悟をきめて第8話を観たところ………以外や以外、これがぜんぜん泣かず、見事なまでの肩透かしをくわされた。なぜ???特に、本当に予告からのギャップが、不思議で不思議で。
この予告からのギャップについての理由は真琴編を全部観た後、はっきりしました。私は原作ゲームもやっておりますし、また、東映版も見ておりますので、この後、真琴がどうなるのか、どんなことになっていくのかを知っていました。ですから、あたかも第8話の予告は、「死にゆく者が元気だった頃のアルバムやビデオを見ている」感覚だったのだと気が付きました。ですから第8話では、予兆、そして、天野美汐との話などもあったのですが、まだ真琴は元気だったわけであるため、感覚的なズレが生じたのだと思います。
そして、第8話のラストで明らかにされる「真琴の正体」。正直、早過ぎると思いました。こんなに早く正体をばらして、話が続けられるのかと思いました。結果として、真琴の正体が明らかになってから、さらに二話も話が続くことになったわけです。悪名高き東映版では、第10話で真琴の話を一気に終了させていました。体の変調、正体ばらし、そして消滅までを。
東映版の話は、またいつか別に書きたいと思いますが、作画がアレだったりだとか、最後の最後で東映版オリジナルウルトラCが展開されたりだとか、個別ルートが見るも無残だったりだとか、問題点が大有りだと思いますが、脚本に関しては私はある程度、よくがんばったんじゃないかと思っています。だって、私は東映版もしっかり「Kanon」として見ることができましたから。その点は、見てマジで大笑いしてしまった「劇場版AIR」との差異だと思っています。
さて東映版では、一気に第10話で真琴の話を終わらせたわけですが、泣かせる話をつくるという観点から見れば、これは正解なんでしょう。正体をばらして、え?っと思わせて、そのまま、消滅させてしまう。これまでに、ある程度、感情移入できるだけの下地を作っておけば、悲しい話として仕上がるはずです。要するに「突然、登場人物が死んだ」という状況に近い形に仕上げたわけです。で、ラストに主人公に名前を叫ばせれば、それで、泣ける話の一丁あがりっていう訳です。マルチエンディングのエロゲーをアニメ化するには適切な手法だと思います。
また、原作ゲームではどうなっているのかですが、ゲーム中の主人公の「自分の彼女が徐々に弱っていき、そして消える」という状況になるわけです。その主人公の「自分の彼女が弱っていくさま」を見せ続けられるわけです。そして言うまでもなく、通常、この手のゲームは主人公とゲームプレイヤーはシンクロするように製作されています。そりゃ、まぁ、泣くわな、普通。ボロボロに。
では、京アニは真琴の正体を明らかにした後の、第9話、第10話の二話でどのような表現をとっていったのでしょうか。京アニは原作ゲーム、東映版、そのどちらの手法も、とりませんでした。ある意味、祐一に感情移入させないような表現をとっていたと思います。というか、私が祐一に感情移入できなかっただけなのかもしれません。京アニは祐一に「死にゆく人に対して、残される者が何をしてあげることができるのか」を淡々と演じさせていました。ある意味、無茶苦茶、リアルに。
実際、「突然の死」よりも「予定された死」の方が気持ちの整理を行える分だけ、その時の悲しみは少ないものです。「予定された死」はそれを告げられた時の方が、ショックがどでかいものです。そして、残される者が死にゆく人に対してできることは限られています。その人が望むことをできる限りしてあげること。そして、できる限り、話をしてあげること。そのくらいです。
だからこそ、あまりにリアルであったため、非常に淡々と話が進んだのではないかと。
第10話の「ものみの丘」での祐一のモノローグにそのことが端的に表されていると思います。以下、祐一のモノローグ。
「これで真琴の願いは成就したと信じた。子供のようにはしゃいで、みんなを困らせて、真琴はしあわせだったろうか。嫌いな俺なんかと一緒にいて、真琴はしあわせだったろうか。全ては報われたんだろうか。本当にみんなお前が好きだった。いつもケンカばかりしていたけど、俺もお前が大好きだった。それに気付いてくれていれば、お前は幸せなはずだった。でもお前は、いつだって天邪鬼だったから、ちょっとだけ心配だよ、俺は。」
まるで、本当に死んだ人への呼びかけのようになっています。残された者、残される者にとっては、願いは成就したと信じるしかないのです。
そして、真琴の消滅後、奇跡が消え再び雪に覆われたものみの丘で、残された真琴の鈴を手に、最後に祐一は真琴の名前を消え入りそうな声でつぶやくだけでした。
だからこそ、この話を見て泣ける人と泣けない人がいるのではないかと思うわけです。私は後者でした。理由は、はっきりしています。今、私自身が……。まぁ、それはさておき。
また、そこが「京アニは真琴編を抑えていた」と言われる所以だと思います。意識して抑えたのか、リアルさを追求することにより結果として抑えられたのかは不明ですが。
親しいひとを失った悲しみには変わりはないのですが、「突然の死」と異なり「予定された死」をこのようにして迎えた場合、残された者、送り出した者にとっては、その場での悲しみは驚くほど来ないものです。日常生活のなかで、ふとその人がいなくなったことに気が付き、悲しみがぶり返すのです。その意味では第11話で祐一が真琴の部屋をそのままにしておいてくれませんかと秋子さんに求めたことは心境をよく表していると思いました。
京アニは、祐一の知り合い、いや、家族であった真琴が「消えていく」にあたり、心をこめて真琴を送り出そうとする祐一、そして名雪、秋子さんの水瀬家のひとたちの描写を行いました。原作ゲームのように「自分の彼女が消えていく」という感覚を全く排除して。そのことが端的に表されていたのが、プリント機のシールに書かれた「水瀬家一同」の文字だと思います(もう少しだけ、普通に見えるように見せてもよかったのではないかと思いますが、あの文字は)。そのような食い違いがあるからこそ、原作原理主義者にとっては、許せないものになっているのかもしれません。本当のKanonの真琴編はこんなものじゃないんだと。しかしながら、京アニの祐一はこの先もこの世界で生きていかなければならないわけです。当然、他のヒロインも攻略していかなければならないわけです。そのことを踏まえた上での京アニの選択だったと思います。
このようなマルチエンディングのエロゲー、いや、ギャルゲーを完璧に、しかも、すべてのひとが納得するような形でアニメ化するには、オムニバス形式で主人公の姿が一切出てこない、完全主人公視点という革新的なアニメにするしかないのでしょうか?
また、さらに不思議なことに「イレ込んだ状態」で見ると、不思議と何か作画の乱れが気になるのです。第8話を観た直後は、私は「京アニにしてはすこし、やらかした」と思いました。しかし、この記事を書くために、すべて見直して、どこが気になったのかが思い出せないのです。
最終的な私の「Kanon真琴編」の感想は、「泣けなかったが、大変、いい話だった」ということになります。もちろん、異常なまでに綺麗で美しい映像の中でその話が語られていたことは、言うまでもないことです。
その他の感想
「ものみの丘」に行くまでの道のりに赤鳥居が描かれていたことは、すごいと思いました。確かに妖狐伝説のあるような場所には、赤鳥居のお稲荷さんが祀られていても不思議ではないと思います。京アニ、GJ。
第3話で「うぐぅ」と接触させることにより、真琴の「すごく人見知り」な部分が非常に印象に残り、無茶苦茶人見知りであるにもかかわらず第8話で学校に祐一を迎えにくるという行為を真琴が行ったことにより、その時、真琴が祐一をどう思い始めたのかが、本当に伝わってきました。京アニ、GJ。
真琴編収録予定のDVDは以下の2巻です。
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Kanon 3 価格:¥ 6,300(税込) 発売日:2007-03-07 |
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Kanon 4 価格:¥ 6,300(税込) 発売日:2007-04-04 |