京都アニメーション制作。2006年春に放映されたアニメ。京アニの制作順で言えば、「フルメタル・パニックTSR」の後、「Kanon」の前に位置する。ご存知の通り、大ヒット作となり、京都アニメーションの名を世間一般に広く知らしめた作品。
私事
「はるひ」などという名前を持つ女にろくな女はいないと、二十年間、思い続けている俺である。ああ、あの辛かったクリスマスのことは今でもリアルに思い出す。恋愛ごと?冗談じゃない、そんなもんはクマムシの角の先ほども、感じては、いなかったさ。あんな女に恋愛感情を抱く奴なんぞは……、いやいや、これ以上は、言うまい……。とにかく、俺は、その「はるひ」という名前を持つ女に、二十年前、むちゃくちゃ、ひどい目にあわされたのである。
そんな女と同じ名前を持つ主人公の小説が何冊も出ているということくらいは、以前から知っていた。どんな話なのかは、さっぱり知らなかったが。アニメ化されるという話を聞いたときも、「はぁ、そうか…」くらいにしか思っていなかった。ちょうど直前に、DVDレコーダーを新調したこともあり、片っ端から撮りだめしようとするアニメの一つでしかなかった。
衝撃のテレビ放映第一話
たまたま、放映時刻が0時からであったため、偶然、リアルタイム視聴をしてしまった。何の予備知識も無しに、あの第一話を見た人間の衝撃は、もうそれはそれは筆舌に尽くし難いものがあった。
第一話の感想を当時、私はこう書いている。
「涼宮ハルヒの憂鬱 多分、面白い…と思う。…って、何で第一話があんなんやったん?」
壮絶な技術をもって作成されたダメダメ映像。その観点から観れるようになると、はまるはまる。一般的に指摘されていない箇所で私のお気に入りのダメダメ箇所は、OPでも使用されているが、「みくるちゃん、今日も、せいがでるねぇ」の台詞の直後の、ストップモーションってなものが使えないために出演者、自らが静止する(……でもゆらゆら動いてしまう)ところとか、プラカードを担いで走るみくるのシーンは、初期の目的を忘れて、あるいは監督の意図を編集が理解していないため、リテイクシーンを全部つないでしまったんじゃないかと想像できるところとか、「あぶな〜〜い」で一旦左端で止まっているみくるが次のカットでは、てってってと動いて電柱にぶつかるところのカット割(編集)のミスとか、「悪い宇宙人のユキさん……神妙に……地球から……立ち去りなさい」の台詞直後のチープなBGMの最後の一音をカットし損ねたところとか……書き始めるとキリがない。ヘッドホンで周辺雑音まで聞くようになると、もうね…よく、ここまでと……。
それから、一気に、どっぷり、はまってしまい、原作本を買い求め…(買った後に甥が置いていった原作本一揃えがあったことに気がついたので…ほぼ、2冊ずつ、持つことになってます。ただ、甥の置いていったうちの一冊は、新川さんの名前がすべて荒川さんに誤植されている版で、貴重品?)。
「原作をただ、なぞっただけ」か?
話、変わって、「銀河英雄伝説」という小説を完全にアニメ化した超大作アニメがある。好きで何度も観ている。また、小説も何度も読み返している。独特の歴史を振り返るというナレーションを完璧に再現して、登場人物の心情まで語ってくれる小説を完璧に再現している。多少、ケスラーの話だとか、イゼルローン要塞が流体金属で覆われていることに伴うアニメ独自の戦法がとられたこととか、DVD版では修正されたが、ファーレンハイトが「汚名挽回のチャンスだ」と叫んだこととかは、あったが、ほぼ完璧に新書10冊にもおよぶ超大作をアニメにしたものである。面白い。しかし、その面白さは、原作の面白さであり、原作を読むのと、まったく、同じ感動しかもたらさない。アニメの良い点としては、原作小説ではよくわからない戦闘シーンを視覚化してくれているおかげで、戦闘シーンがわかりやすくなっているという点に尽きると思う。ビッテンフェルトがどのような失敗をしたために戦線にどのような乱れが生じたのかを、原作を読んだだけでイメージできる人は少ないと思われる。
これが「原作をただ、なぞる」ということだと思う。
しかし「ハルヒ」に関してはどうか。明らかに、制作側が意思を持って改変を行っている。
「ライブアライブ」での違和感。
作画、声優等のスタッフ全員が燃え尽きたと「涼宮ハルヒの公式」に記されているテレビ放映順第12話(時系列順でも第12話)の「ライブアライブ」の話。もの凄い映像、音響は改めて私が触れるまでもないことであろうと思うし、実際、いろんな方がレビューされておられるのでそちらを、是非。
伝説のライブ映像を放映時にリアルタイム視聴したときに…ある違和感がありました。こんな台詞、あったっけ?という。それは、「涼宮ハルヒの詰合」のCMの発売中ヴァージョンにも使われていた「今、自分はなにかをやってるっていう感じがした。」という台詞。
アニメ版 伝説の樹の下(笑)での会話
ハルヒ「何よ」
ハルヒ「時間なくて、簡単なアレンジに変えちゃったからね。本物が聞きたいのは当然でしょ」
キョン「MD希望者の話か?」 ハルヒ「そっ。」
キョン「でも、ぶっつけにしては、なかなかの演奏だったな。いい宣伝にはなったんじゃないか」
ハルヒ「あと一日あったら、しっかりした準備ができたのにね。あんなのでよかったのかなって、少しは思うけど。なんて言うの…今、自分はなにかをやってるっていう感じがした。」
ハルヒ「なんか落ち着かないのよね。なんでかしら…。」 キョン「俺が知るわけないだろ」
「それはな…お前が…」から始まるキョンの独白。
ハルヒ「なによ。何か言いたいこと…」から草むしり、ぺっぺっぺ。
一方、小説でのやりとり
ハルヒ「何よ」
ハルヒ「うーん、何か落ち着かないのよねね、なんでかしら。」
キョン「俺が知るわけないだろう。」この後、キョン独白。
ハルヒ「なによ。何か言いたいことが……」草むしり。ぺっぺっぺ。
ハルヒ「ライブもいいものよね。あんなのでよかったのかなって少しは思うけど…。けど、そうね。楽しかったわ。何て言うの?今、自分は何かをやってるっていう感じがした。」
アニメ版でのハルヒは「今、自分は何かをやってるっていう感じがした」と、なんだか自分でもよくわからない、とまどいの感覚のままで口にしています。一方、小説版の方では、草をむしってキョンに投げつけ、これまでの自分、今まで通りの「俺様的な」自分、を取り戻した後、さらには「楽しかった」と断言した後に「今、自分は何かをやってるっていう感じがした」と言っています。私は、この言葉の持つニュアンスがかなり異なっていると思えるのです。だから、アニメを見たときにこんな台詞あったっけと思ったわけです。まぁ、原作もアニメも、どちらも「ただの人間には興味ありません」と断言したハルヒが、まったく見ず知らずの人間の代わりに舞台に立ちライブを行う。そして、来年、キョン、みくる、有希とライブをしたいと思うようになるという話であるわけですが。
ハルヒの性格の変遷について。
原作は、時系列がぐちゃぐちゃに執筆されたせいもあって、明確になってはいないのですけれど、アニメでは、明確にハルヒの性格の変遷が描かれています。
1.SOS団設立以前と以降
2.閉鎖空間からの帰還以前と以降
3.七夕以前と以降
4.文化祭以前と以降
原作からすると、七夕は大して意味が無いのですが、アニメに準拠するとこういう感じになるのではないでしょうか。七夕前の話が、「涼宮ハルヒの退屈」、七夕以降の話が「ミステリックサイン」。徐々にハルヒが落ち着いてきただけと解釈するのが正しいのかもしれません。
文化祭以降のハルヒは、それまでになかった大きな変化をとげています。団員、個人個人との関係を大切にしようとする感情が生まれてきています。「ライブアライブ」でも翌年のステージにキョン、みくる、有希と(古泉はどーした?)立ちたいと言いました。SOS団で出るではなく、あくまで、キョン、みくる、有希とです。アニメ版、「射手座の日」にてハルヒは、有希を「SOS団に不可欠な無口キャラなのよ」と言ってコンピ研の部長の勧誘を排除しようとします。小説版も同様。それ以前の「退屈」の野球は、「名前は、SOS団で申し込んどいたわ。」ってな感じだったので、あくまで自分が作った団としての活動がハルヒの中心にあるわけです。
小説版では、文化祭以降、団員全員で楽しく過ごすというハルヒの考えが明確に示されていくわけです。みんなでクリスマス鍋パーティーをやる。みんなで冬合宿に行く。みんなで生徒会と戦う。しかし、小説版では明確なハルヒの性格のターニングポイントになった箇所が示されていませんでした。いや、気づくように書かれてなかったと言うべきでしょうか。しかし、それを京アニは明確に文化祭と定め、意識して台詞の置く位置を変更したのではないかと思ってしまうわけです。
ですから、よく言われるように、京アニの計算され尽くした脚本というのは、本当じゃないかと。京アニの脚本に残された台詞は、意味があるから、必要があるから、そこにあると。
また、放映順第11話(時系列順第13話)「射手座の日」では、キョンの台詞が変わってます。有希に向かって「勝ちたいのか?」とはっきりと尋ねています。有希は何も答えないのは、原作通りでありましたが、観ている者には、キョンの質問が「勝ちたいのか?」であったため、明確に有希に勝ちたいという意思を見ることができます。今後への明確な伏線なわけですよね。
映画撮影の話「溜息」は、文化祭直前の話なのですが、ハルヒの性格、行動を考えると、七夕以前の不安定な状態なんですよねぇ。団員との信頼関係がまったく無い状態で。「退屈」と同時期のような印象を受ける。まぁ、「溜息」は、連載の第一作目なわけで、そんな先の先のことまで見越して、作者が書くことは不可能なんですけど……。ですから仮にハルヒの第二期でアニメ化するときには、とても難しいんじゃないかなぁと思います。まぁ、うまくまとめれば、アニメ版放送順第9話(時系列順第14話)「サムデイインザレイン」のハルヒのような感じにできなくはないかとも思えますが。
原作小説との比較
放映時、憂鬱IVの予告で、次回が「射手座の日」ということで、正直、落胆しました。原作ではあまり面白い話ではなかったからです。どちらかというと団員が振り回される話の方が面白いと感じていましたので、もっとも観たかったのが「エンドレスエイト」そして、次が、放映されるであろうと思っていた「笹の葉ラプソディ」でした。しかし、実際に放映された「射手座の日」は、大変、面白いものでした。その「射手座の日」の次回予告が「ライブアライブ」でこれまた落胆。しかし、実際は、凄まじいものだったというのは、前述の通り。原作からの期待以上のものを常にみせてくれてたというのは、すごいと正直思いました。もう、それで私は京アニ信者へととっぷりとはまってしまいました。もう、京アニについていこうと思いました。まぁ、「エンドレスエイト」は制作当初は放映予定であったのが、憂鬱が全6回となったことにより、削られたとのことだそうです。
最初から「笹の葉ラプソディ」は予定になかったということは、第二部が念頭にあったのでしょうね。
このように原作の予想の常に上を行ってくれているわけです。京アニは。一方、原作はというと……。正直、あまり面白いものとは思えなかったです。わたし的には、そんなに読みにくいとは感じませんでした。ひとによっては、キョンのモノローグなのか、台詞なのかがわからないところが非常に気になって集中できないという意見もあります。しかし……内容的には、よくわからない。何故、「憂鬱」でたかだか、あんなことだけで、ハルヒが閉鎖空間からの帰還を考えたのか、は、読み取ることができません。
アニメ版から、時系列的に「憂鬱VI」の直後の「退屈」のラスト近くでのハルヒの台詞「あんたが、そう言うなら、まぁ、いいわ」という感じだったのかと勝手に解釈しています。
わたし的には、「涼宮ハルヒの憂鬱」という小説は、再読することはできるが、あまり、再読する価値がないということになります。あの小説をよくもここまでアニメにしたなぁというのが正直な感想です。
しかしながら、「涼宮ハルヒの消失」、「涼宮ハルヒの陰謀」あたりは好きで、何度も読み返しております。多少、「消失」→「ひとめぼれLOVER」→「雪山症候群」の年末の流れを考えると「雪山症候群」でのハルヒの態度に違和感を感じますし、さらに「ひとめぼれLOVER」のハルヒの態度に、もっと、違和感を感じます。原作者が「ひとめぼれLOVER」の置く位置を間違えたようにしか思えませんが…。
京アニは以前、「フルメタふもっふ」の後、激涙の「フルメタTSR」を作ったという前歴があります。ハルヒ二期は、おそらく「消失」が中心になるでしょうから、激涙のものに仕上げてくれると思います。ええ。京アニならきっとやってくれる。
しかし、現状、ライトノベルのアニメ化が受けると勘違いした馬鹿な製作会社が次々に乱造して大変なことになりつつあるのかな……。ふぅ。